言霊の華 第570号『「コレラ」を克服した勝海舟の胆力』を配信しました

『「コレラ」を克服した勝海舟の胆力』

 

幕末の日本、勝海舟がいました。咸臨丸に乗船し、アメリカ使節団の幕府の要人として海を渡り、欧米文明を視察し、早くから開国派となった人物です。この咸臨丸には福澤諭吉もいました。ペリー来航から三年後のことです。

大嵐の中、いまにも船が転覆しそうになった時でさえ、顔色一つ変えず平然としていたそうです。後に幕府の海軍を創設し、海軍奉行になりました。開国派であったため、尊皇攘夷派から常に命をつけ狙われていたのです。

ある日、坂本龍馬と千葉道場の塾頭、千葉周太郎が勝海舟を斬りに行こうと海舟の家に行きました。海舟は会った瞬間「あんたらわしを斬りに来なすったんだな。それじゃその前に俺の話を聞いてからにしなよ」と言い、家に上げ、地球儀の前で海外情勢を熱く語り始め、どんなに海外が進んだ文明を持ち、経済力、軍事力が圧倒的に強いかを説明したのです。

それを聞いていた坂本龍馬は斬ることなど忘れ、海舟の胆力、人間力、知識に惚れ込み、話が終わるや否や、その場で「先生、弟子にして下さい!」と訴えたのです。こうして龍馬は神戸に出来た幕府の海軍操練所の塾頭になり、後の「海援隊」「亀山社中」の創立に至ったのでした。

自分を斬りに来た男を惚れさせ、日本の歴史に名を残すほどの人物を育て上げた勝海舟の胆力は、そればかりではありません。西郷隆盛にも強い影響を与えます。長州征伐の折、「西郷さん、あまり長州を苛(いじ)めなさんな。幕府ではもう世の中もたないよ。一層のこと長州と手を組んで、幕府に替わる新しい世をつくるのがお前さんたちの仕事じゃないのかい」と諭します。

やがて世の中は薩長同盟へと動いて行くのです。江戸城無血開城もそうです。心から尊敬している海舟を前に、一対一で対座した西郷。胆力×胆力。無私×無私。氣×氣。この二人には多くの言葉は不要でした。氣脈が通じていたのです。

西郷隆盛の胆力、無私は鹿児島錦江湾で京都清水寺の尊皇の住職、月照上人を抱きかかえての入水心中で生き残ったこと、二度の島流しで得た内省力。それらは自己放下(じこほうげ・捨身)による真の自己、即ち霊魂(みたま)との出会いであり、永遠の自己の発見だったのです。

それでは勝海舟の胆力はどのように生じたものだったのでしょう。海舟がまだ林太郎(りんたろう)と呼ばれていた頃、旗本でありながら家は極貧状態でした。父の小吉は放蕩三昧で博打に明け暮れていたのです。

ある時、年の瀬が迫った頃、幼い林太郎(海舟)は親戚の家にお遣いを頼まれます。親戚の家では林太郎の家が貧しいのを知っていて、帰りに沢山の餅を袋に入れ持たせました。帰宅途中、両国橋を渡っている時、袋が破れ、餅がゴロンゴロン川に転がり落ちます。

慌てて必死の思いで拾っていた林太郎は何を思ったのか、次の瞬間、持っていた残りの餅を袋ごと川にポイッと捨ててしまい、何もなかったかのように涼しい顔をして帰宅したのです。物事に執着したり、恋々とするのは、武士として人間として浅ましい、恥じであるとでも思ったのでしょう。

もうこのような幼い頃から自己放下することによって、自ずと胆力が備わって行ったのだと思われます。自己放下した西郷と勝海舟。そのような人々が時代を動かし時代をつくって行くのです。

ところで勝海舟に興味深い話が残っています。コレラを自力で克服した話です。コレラに羅患した海舟は毎日高温の風呂、きっと50度近くあったと思われますが、肛門に親指を突っ込み、下痢を止めながら入り続け、遂にコレラを克服したのです。

高温で菌を死滅させ下痢を食い止めることにより、身体を消耗から守りきりました。海舟の胆力恐るべしです。新型コロナウィルスを恐れるあまり、全てが自粛、規制、休止に追い込まれる中、もう一度霊魂からくる胆力を取り戻したいと願うこの頃です。

我ら今月20日、お伊勢の五十鈴川で恒例である禊を斎行して参ります。

 

合掌 かむながらありがとうございます

 

菅家 一比古